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第十四章;「鱶と天蚕糸」


 町はまるで青いインクで充たしたような大洪水だった。海からやってきた体長6mに及ぶクジラのような影がアスファルトの上をゆっくりと泳いでいる。鱶だろうか?建物の下でその影を眺めている誰かに向かって叫ぶ──早く逃げないと、じきに大きな波がきてしまう。だが、その声は水音に掻き消されてしまい、届かない。ベランダから身を乗り出してもう一度叫ぶ──逃げて下さい、急いで!人影は一向に動こうとせず、今や海底と化したアスファルトの巨大な影を指差し、こちらに向かって何か云っている。鱶のようなそれは身をくねらせ、今にも襲いかかろうと暴れている。きっとあの人は喰われてしまうだろう。水が紅く染まる瞬間が来る前に、この部屋から出よう。僕は踵を返し、風に翻るカーテンを腕で振り払って前に進もうとする。が、カーテンは幾重にも重なり、ソフトフォーカス越しの景色のように視界を遮っている。階下では水が一気に流れ込む音が轟々と響いてくる。カーテンの先にUちゃんが立っていた。こんな場所で遇うなんて、と僕等は笑う──下に大きな魚がいたよ。見た?Uちゃんはただ微笑んでいる。「そんなことどうだっていいじゃない」と手に持った天蚕糸を指先に交互に縫いつけている。何やってんのそれ、と呟くと「縫わないと“あれ”が来てしまうの」とUちゃんは顔を上げて云った。Uちゃんの目は魚のように青く透き通った色をしていた。窓からレモンイエローの光が射し込み、眩しさに目を閉じたら、そこは海底だった──ああ、そうか。結局、鱶の餌になるのは自分自身だったのだ。彼女はそれを知っていたのだ。海底で膝を抱いてそのままじっとしていた。その内あの大きな魚が戻ってくるだろう。海底へと垂れた天蚕糸が、射し込む光に煌めくのが見えた。鱶はきっとあの糸をかいくぐって此処へと辿り着く。
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