◆曹仁 子考◆
曹仁は字が子考。沛国県出身で曹操の従弟である。
若くから弓術、馬術を好んだ。
曹操の配下と属し、別部司馬となり、行事N校尉に任ぜられた。
曹操が袁術と戦った時、曹仁が斬り殺したり生け捕りにしたものはかなりの数にのぼった。
徐州討伐の際は常に軍の先鋒となった。
陶謙との戦い、呂布との戦いでもたびたび手柄を立てたので、広陽太守に任命された。
曹操は曹仁の勇気と知略を評価していたため郡にとどめず、騎兵隊を指揮させた。
張シュウ討伐では負け戦となったが曹仁が将兵を叱咤激励したため張シュウを打ち破った。
曹操が袁紹と官渡で戦っていたとき、敵が派遣した劉備を討つことを進言し、曹操はそれに従い曹仁に攻撃させた。
曹仁は劉備を打ち破り、ふたたび反旗をひるがえした諸県を全て取り戻した。
袁紹が韓荀を派遣した時は、曹仁がそれを攻撃し、打ち破った。
河北が平定された後、曹操にしたがい、壺関を包囲した。
城が落城したら全員生き埋めにせよとの命令を出していたためなかなか落城させれなかった。
曹仁は「城を包囲する時は、生きるための出口を示してやるものです。」と進言して、曹操がこの意見に従った所、敵は降伏した。
この結果、曹操は曹仁の功績をとりあげ、都亭侯に封じた。
荊州平定の後、曹仁を行征南将軍に任じ江陵に駐屯させた。
呉将の周瑜が数万の軍勢を率いて攻めてきたので曹仁は三百の兵士と牛金を派遣して、戦いをいどませた。
牛金の兵数はわずかだったから包囲されてしまった。
曹仁は陳矯がひきとめたが返事もせず数十騎をひきいて牛金らを救い出した。
陳矯らはそれを見て「将軍はほんとうに天上世界のお方だ。」と言い、心服した。
曹操はそれを聞いてますます感心し、安平亭侯に任じた。
その後も、馬超との戦い、蘇伯、田銀の叛乱、侯音との戦いで活躍した。
ちなみに馬超との戦いの時は行安西将軍、蘇伯らの叛乱は行驍騎将軍、侯音の時は行征南将軍になっている。
樊城に駐屯しているとき、蜀の将、関羽に攻撃され包囲された。
于禁の援軍が到着したがちょうど漢水が氾濫し、于禁は降伏した。
曹仁は樊城が水につかりながらもよく耐えたが食糧が尽きそうになった。
そこで曹仁は将兵を激励し徐晃の援軍が来るまで守った。
徐晃が関羽を攻撃したため城から出ることが出来、関羽は退却した。
曹操が死んだあと、曹丕が帝位につき曹仁を車騎将軍・都督荊揚益諸軍事・陳侯に昇進された。
その後も孫権の将、陳邵との戦いで活躍し大将軍に任命された。
また、詔勅を下して曹仁を大司馬に昇進させた。
黄初四年(二二三)に曹仁は逝去し、忠侯とおくりなされた。
このとき、曹仁は五十六歳であった。

個人的評価 曹仁は[演技]ではあまり目立たず、やられ役のキャラですが、[正史]を見ると凄い将軍だと思います。
たびたびの戦に参加し功績を挙げ曹操、曹丕からの信頼も厚く、最後は大司馬まで昇っています。
東宮時代、曹丕は弟の曹彰に「征南将軍(曹仁)のようになれ。」と手紙で述べているのを見てもどんな武将だか分かる。
曹仁は若い頃は突撃タイプの武将だったが成長すると厳格に法規を遵奉していたという。
城の守備もなかなかのものだったのではないかと思う。

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